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和田中学校の職員室
今春から和田中学校に通学している娘はバスを利用している。バスは1時間に1便くらいしかないので、部活が遅れたり、ノロマな着替えをしてバスをミスるとかなり時間をロスすることになる。冬は日暮れもはやく、気が向いた時には、父親は娘のアッシー君(すでに死語?)を勤めてあげる。夕暮れの中、職員室に明かりが灯っていたので、30年ぶりに訪ねてみた。
校長先生と教頭先生は、ちょうど私がここに通っていた時の数学と英語の先生だった。特に教頭先生には野球部の顧問でお世話になった。当時の和田中野球部はいつもコールド負けばかりで弱かったが、どういうわけか私達がレギュラーになった新人戦では郡市の大会で優勝した。フミカズ君という生徒会長もつとめたエースがいて、優勝の原動力はほとんど彼だった。絵に描いたような優等生で、女の子にもめちゃくちゃ人気があった。私はそういう彼をいつもマスク越しに眺めるキャッチャーで、少し嫉妬していたかもしれない。だからキャッチャーのことを女房役というのかどうかは知らないが、四番を打ったスラッガーの自分もそれなりに活躍した。優勝した新人戦の準決勝は1−0の完封勝ちだったが、1点は私の挙げた打点だったので少し威張れる。先生は優勝をいたく喜んでくれて、それまで以上に熱心な指導をするようになった。それが災いしたわけではないが、それからさしたる成績は残せなかった。校長先生は当時数学の先生で、何回かビンタやゲンコツをいただいたこともあった。当然、私が悪かったのだし、「先生に殴られない男子は男じゃない」くらいの雰囲気が当時の学校にはあった。基本的に体罰はよくないが、本人には良い思い出になっているのだからそれでいい。ここで教育論争などするつもりは毛頭ない。そういうことを経験することで、痛みも理解するし、「ケンカでいきなりナイフ」のような少年はもっと減るはずだ。
戦後のドサクサの中で生き抜いた親を持ち、高度成長時代に産み落とされた私達は、バブル景気という妖怪の住む時代に子供を得た。一貫してその時代に流れていた風潮は、おおよそ人間の感情など無視した、過剰な競争意識でしかなかった。その競争の果てに得たものは、現代社会のそこかしこに散乱している膿でしかない。できそこないの卒業生に言われたくはないだろうが、そういう時代の中で人を教育する先生は本当に大変だと思う。それに教壇には、昭和40年代生まれの、いわゆる新人類の先生が立っているのだから話しはもっと複雑だ。「いつでも寄ってください」と言っていただいたが、やっぱり職員室というのはいくつになっても入りづらい。ただ、ピキーンとした雰囲気はあの頃のままで懐かしかったし、罰としてよく掃除した職員室の床がきれいだったのも何となく誇らしかった。
2000-12-05
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