THESE DAYS

 セイシュンノヒビ 


TALK ABOUT 1990th

このコーナーのタイトルの両側に3つの点がある。それぞれ色が違う。70年代と2020年代が同じ色になっている。つまり、2000年を境にまた若い頃に戻る、もちろん精神的にであるが、そんな人生はどうだろうというかすかな願望の表れだ。わざわざ書かなくとも理解してくれるかたはいるだろうか?70年代の家出少年を2020年代の自分におきかえるとしたら、それは紛れも無くアルツハイマーになった自分を意味することだろう。でも70年代が味わえるならそれも悪くない。臆することではない。


 

RUST NEVER SLEEPS

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A DAY IN MALIBU - MICKEY KAWAII'S 30TH INVITATIONAL CONTEST

1996年10月1日、歴史に刻み込まれるであろうその朝は、小雨がぱらつきながらもゆっくりと明けていった。台風の日特有の潮を含んだ大気とごうごうと雄たけびをあげる波の音。昨夜遅くまで、この朝おこなわれるコンテストの準備に借り出されていた私は、頭の中がクラクラするような、特別な眩暈のようなものを感じながら車を走らせていた。国道沿いから確認できる海という海は、どこも大波に洗われていて、私は、とうとう来るべき日がきたことをはっきりと感じ取っていた。

「川井さんがサーフィンをスタートさせてからの30年のお祝いとして、なにかやろう、特別な企画をしよう」そんなはなしが持ちあがったのは、もう2年もまえの秋のことだった。「台風のウネリを待って、マリブあたりでコンテストなんてどう?」なにげない冗談が今、こうして現実のものとして動き出そうとしていたのだ。彼のサーフィンの歴史は、とりもなおさず日本のサーフィンの歴史でもある。これに異論を唱えるサーファーなどどこにも存在しない。そういう考えが存在するとすれば、それは、ROCKの歴史にSTONESが抜けているような、陳腐でバカバカしい戯言でしかない。

台風20号のウネリをしっかりと受けとめたマリブは、日本のサーフィンの歴史にひとつの金字塔をうちたてるにふさわしい風格を漂わせていた。私たちが2年間待ちわびた日がそこにあって、ゆっくりと、歴史に大きな楔が打ち込まれようとしていた。顔見知りのサーファー達の笑顔、台風からのスウエル、エモーショナルな雰囲気、サーファーだけが知りうる満ち足りた幸福がそこにあった。30年間、その時時にそのような満ち足りた幸福を感じてきた偉大なサーファー、川井幹雄にとって、まさにおあつらえむきの日がやってきたのだった。

私達は、明日の波を気にするあまり、意外と自分達の過去や歴史には無頓着である。とりもなおさず、それがサーファーとしての生き様であり、明日の波以外に重要なことなどありもしない。そうして日々怠ることなく波と正対してきた彼の30年間は、私達すべてのサーファーの誇りであるといっても決して言いすぎなどではない。私達は、軽率に反体制を唱えたりしないし、世捨て人でもない。最低限ではあるが、しっかりと社会に順応して生きてもいる。ただ波に乗ること以上に重要なことなど、この世には存在しないのだ。私達は海に逃避しているのではない、そこで得られるものが多いから、そこでしか得られないものがあるから、だから海へ行くのだ。そして波に乗るのだ。

私達の脳みそは、長年の潮で錆びついている。どんな潤滑油でも決して円滑に動いたりはしない。潮で錆びついた脳みそは、潮によってのみ動かされるのだ。これからも錆びは決して眠らないだろう。だから私達は海へと出向くのだ。お疲れのビールはほどよく錆びついた脳みそを刺激していた。カーステレオから流れるNEAL YOUNGはこう歌っているRUST NEVER SLEEPS・・・・・・・

30周年おめでとうございます。 そして偶然の優勝をありがとうございました。


全日本記念大会でMCをする

1995年,この年、全日本サーフィン選手権大会は30回を数え、いわゆる記念大会となった。NSAJPSA、つまりプロとアマチュアサーファーが合同でやろうということになった。かつてはプロ、アマは一緒に全日本大会をやっていたので、ただ昔の形態にもどしただけという見方もできる。しかし、大会の規模も大きく膨れ上がり、プロ、アマ同時の開催はかなり困難な時代を迎えていた。

しかし、30年の記念ということでNSA JPSAともに歩み寄って開催にこぎつけたのだった。ここで問題が起きたのである。NSAサイドがコンテストのMCに予定していた人が急に使えなくなってしまったのだ。理由はたくさんあって、かなり政治的なことまで話さないとならないのでやめておく。で、NSAでは緊急理事会とか開いて協議した結果、かなりいい加減な感じで「しかたねえ、岡田君やってよ」そうなってしまったのだ。コンテスト開催まで1ヶ月を切っていた。

この全日本大会は年代別にチャンピオンを決めるもので、年代にあわせた音選びはなかなか楽しいものだった。30年の歴史を音楽でも辿ってあげようとしたのだけど、そこまで理解していたサーファーは4 5人だった。ともかくこの記念大会も無事に終了した。なかにはわたしの音楽を痛く気に入ってくれた方もいた。「いやー、あんなに楽しくコンテスト見たのは初めてです」ブルーハワイサーフの大社長西宮ブーチャンからも後日、FAXをいただいた。グランドファンクでは雨の後楽園球場のコンサートを思い出したようだ。そういえばこの記念大会のロングボードクラスを制したのは、サーファーで俳優の真木蔵人だった。「よかったじゃん」というと「いやー、修平さんの音楽とMCも最高でした」なんてうれしいことをいってくれた。このあたりから芸能人もサーフィンを始めて、一気に若者にサーフィンが浸透していったのだ。

なんだか自慢話のようになったが、このHP自体が自意識過剰なものなのでしかたない・・・


1991 ALL JAPAN SURFING CHAMPIONSHIP

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この前年も全日本は新島で開催された。1990年、その時私は左足の靭帯を伸ばしていて、サーフィンどころではなかった。決して言い訳ではないのだが予選で負けた。いわゆる一発負けというやつだ。その時、私は千葉南支部の支部長をやっていた。べつに選ばれたわけではなく、持ちまわりでやらなければならない、中学校の週番のようなものだ。ところでこの全日本選手権というのは、ふつうのコンテストとは違い、歴史も権威もあり、なので応援にも熱が入る。それに各地域の名誉を賭けて戦うような意味合いもある。まして、この支部長クラスってものはお笑い部門でもあり、支部の全員が応援するものでもあり、なにかおかしなものだが、ただ当の本人達はいたって真剣ではある。

で、そこで負けると、あとにはすごい非難の声が待ちうけている。たまたま私のヒートにはサイレントのサーファーがいた。私は彼に負けたものだから散々言われた。「五体満足な人間がハンデある人に負けたらやばいよね」「いい波、あれパーリングしたもんなあ」などとこてんぱんにやっつけられた。それも同じ支部ではない鎌倉のサーファー達にグワングワンに痛めつけられた。もちろん笑いながらではあるが、竹中伸一さんにはかなり遊ばれてしまった。竹中先輩はこの年4位になり、さっさとプロへ転向している。この年ばかりはどうにもならなかったので、徹底的に夜の新島を遊んだ。遊びながらも先輩は負けたことにふれるので、かなりバットな遊びとなった。そういえばジャッジもしていて、この時ベストジャッジ賞なんてもらったが、あまり嬉しくもなくトロフィーは東海汽船の中に忘れてしまった。

翌年の1991、またも新島で全日本があった。支部長は2年任期だったのでこれが最後の年だった。昨年のこともあったしわりと真剣だったのだが、新島の海は台風で荒れ狂っていて、とてもサーフィンどころではなかった。東海汽船も新島の港には着岸できず式根島からはしけで渡ったくらいだ。しかし、大会は決行されたのである。毎年全日本も出たがこれだけでかくてジャンクな波は過去なかった。強烈なカレントと6フィートくらいのセットは、見るだけでもウンザリだった。予選では私ひとり沖へ出てしまい心細かった。乗らなければまた後で、去年と同じ仕打ちを受ける、ならば乗ろう。テイクオフしたが立った瞬間頭が逆さになった。ひどいワイプアウトだった。

準々決勝 準決勝はほとんど手におえない荒れようで、上手い奴が勝つというあたりまえの状況ではなかった。やらされる私達もかなりウンザリしていた。だってこのコンテストでは30本以上のボードが折れたんだぜ。パイプラインなみである。自然を相手にするのがサーフィンなんだ、という言葉、そのあまりにも解かり易い状況が目前で展開されていた。ファイナルデイはようやく海も落ち着きだした。全員が沖へ出てサーフィンできた。で、優勝もできた。けれどまだまだかなりヘビーな状況で、私は残り時間もあったが海から出てしまった。砂浜で、最後に藤沢支部の大川君がでかいセットに乗るとこを見ていた。SWのフォトグのかもじが写真をとっていて「あれ乗ったら大川君の優勝だよ!」といってたので「大川 さされー!」とどなったら大川君は見事にパーリングした。もちろんぼくの声など聞こえない、ずっとアウトサイドのデカイ波に大川君はいったのだ。やっぱりコンテストは友情なくしては勝てないものなのである。その夜、大川君にビールをご馳走したが浮かない顔だった。

その時使った6'10のロペスモデルはボトムに大きな亀裂が入ってしまい使い物にならなくなってしまった。


砂浜説法

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砂浜にテントをたててやることといえば、キャンプかサーフィンコンテストくらいのものだ。この時私達は何をやっていたかといえば、砂浜にテントをたてて、ある崇高なサーファーのお話に耳を傾けていたのだ。そうその方とは写真でもおわかりのとおり、ジェリーロペス先生だ。

今思い起こすと、なんで砂浜なのか?どこかの会議室か何かがよかったのではないか?などと考えてもしまうのだが、あれはあれで趣があって非常に有意義なものだった。シェイパーでジェリーさんとは長くつよい関係にある植田義則氏が連れてきてくださったんだ。質問コーナーとかもあって、それはそれで楽しかった。「今、パイプで上手いサーファーは?」「なんでカモフラージュデザインができたのですか?」「あまりたくさん食べないそうですが腹すきませんか?」 「ヨガのサーフィンにおける効能は?」なんだかんだと質問攻めにあい、ジェリーさんも困惑しながらも終始笑顔でよかった。運転手として同行した鎌倉の磯田英一もニヤニヤしていた。サーフィンワールド誌のフォトグラファー、仲山善郎氏も笑顔だった。佐藤伝次郎氏がいたのはこの年ではなかっただろうか、子供に白湯を差し上げたうちの妻に、お礼にとBANZAI FILMSのTシャツがプレゼントされた。

それから我が家で昼食となったのだが、そのときもほんとに寿司を3こほど食べただけで、あとは緑茶をていねいに飲むだけだった。当時、私の娘は2歳になったばかりで、その娘に向かって微笑む笑顔はなんだか人間を超えた深みがあった気がする。興奮と感動とビールと、なんだかんだですかっり舞い上がってしまっていて、よく思い出せないのが残念だが、お別れの時におっしゃった言葉ははっきりおぼえている。

海に住んで、家族がいて、そのほかに何が必要だと思う?長く同じことをしていると自分を見失うこともあるけれど、これがシアワセなんだ。今がシアワセなんだということを忘れるな。これを長く続けるために努力しなさい」

私は弱い人間なのでいろいろな誘惑にやっつけられたり、やっつけられそうになることが多い。そういう時、このことばを何時も思い出す。コンピュータで幼稚な物語をこしらえている自分を先生はどう思うだろう?「そんなこと止めなさい」言われればすぐにでもやめるのだが・・・

1991年 秋晴れの和田浦海岸にて・・・

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