THESE DAYS

 セイシュンノヒビ 

 

TALK ABOUT 1980th

1980年代、私は新しい人生を歩み出す。サーフショップをスタートさせ、結婚をして子供ももうけた。サーフィンにはまりながらも、この年代で強く感じたことは周りの人達によって生かされているんだなということだ。70年代が自分のことしか考えられなかった年代だとすると、ようやく回りもすこしずつみわたせるようになったのがこの年代だ。周りのみんなに感謝するということも多少覚えた。そのぶんだけ鋭角な視点は消えうせたかもしれない。


1974年型デリバリ、九州へ行く

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1989年、第24回全日本サーフィン選手権大会は、初めて九州は宮崎県で開催された。私は選手として参加し、二人の若手サーファーもそれに同行した。ツヨシはメンクラスに、カズヤはジュニアクラスに出場するためだった。私はシニアクラスに参加した。三人ともにたいした成績は残せず宮崎を後にした。

私達はフェリーで木更津から川崎へわたり、川崎から日向へと渡った。ほとんどフェリーに揺られていればいいわけで、車を運転する距離はたいしたことはない。ならば!ということで、私は、愛車1974年式のフォルクスワーゲン、デリバリーを九州へと連れてってあげることにした。九州の南国風景に愛車は程よくマッチして、私達はご満悦だった。エンジン音も軽快に、私達は宮崎の海岸線を走りまわった。

ところが、問題は起きるのである。いつだって、ところかまわず、波のトップからボトムへと叩き落されるような問題は起きるのだ。帰り道、日向港へ行くと、台風のためフェリーは欠航だという。いつ出港できるかもわからないという。答えはたったひとつだった。宮崎から福岡まで九州を横断して、関門トンネルをくぐり、中国自動車道、名神、東名高速を走破するしかない。はたして、この1974年型でもつのかどうかの不安はあったものの、それ以外に選択肢は無かったのだ。最高速度80KMのオンボロは、それでもよく頑張ってくれた。台風は、私達の進路を影のように付きまとい、雨、風はついに止むことは無かった。

走破キロ数は忘れたが、出発してから自宅へ到着するまで28時間を要したことは、今でもハッキリ覚えている。コンテストにはいつも勝った負けたがつきまとう。それは勝負の世界なのでしかたない。けれど、想い出として残るのは、そういう結果よりも、その過程に起こったアクシデントだったりする場合が多い。たぶん、それがサーフィンの魅力なんだとさえ思える。トロフィーは色褪せても、想い出は決して色褪せることはないのだ。わざわざ九州まで出かけて予選負けした腹いせに、少し屁理屈をこいてみた。


HEAVY LOCALISM

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1970年代から1980年代初頭にかけて、この地域は圧倒的なLOCALISMを誇っていた。今の時代では考えられないくらいのかなりヘヴィーな意識が支配していた。当時、和田浦以南は内房という名称でくくられていて、他地域との交流もなかったし、サーフィンの歴史の面でもだいぶたちおくれていた。それでも温暖な気候,   美しい海、 内房エリアのリーフブレイクの質のよさは他にはない魅力あふれるものだった。

よそ者を迫害するといった意識よりも、むしろ他地域にはやく追いつき追い越すといった焦りのようなものがLOCALISMを更に強くしたのではないかとも考えられる。暴力沙汰は抜きにして、当時のような気概に満ちたサーファーはもういなくなってしまった。その頃の雑誌には「内房エリアにいくと、身の丈160から170cmの鮫がウヨウヨしてるから気をつけろ」そんな記述がされている。ほとんどのローカルは雑誌など読まなかったのでたいした問題にはならなかった。

そんな強力なLOCALISMの中から、やがて全日本チャンピオンが生まれ数名のプロサーファーも輩出したのだ。 当時、この地域に否定的だった雑誌もこのころには、しっかりとこのエリアの成長を記している。LOCALISMについても言及している。ジャーナリズムは何時の時代でもこうあって欲しいと願う。そのへんはSURFING CLASSIC誌2号に詳しく述べられている。ただ、私は当時、大学生でいろいろなとこを訪ねて、いろんな人と出遭いサーフすることに喜びを見出していた。なのでこのグループに対する非難の声が私の旅の足かせとなったので、私はそこから脱退した。

私には隠したい過去などない。隠ぺいしたい事実などない。私は数年間そこでお世話になった。とてもよくもしてもらった。格好いい人もたくさんいた。ただ私のしたいサーフィンはもっと違うものだったのでそこを離れただけだ。あの当時起こった事実や事件から逃げ出そうなどと思ったことなどない。かくそうなどとも思っていない。むしろ自分の中ではキラキラと輝いてた時代でさえある。波にもローカル達にも今よりうんとパワーがあった時代を避けてなど通れないし、あの頃が存在しなければ今の自分などあろうハズがない。

あの頃のほとんどの人達は、窓の外でようやくほころびかけている桜のように短期間でスパっと散ってしまった。臆病者の私はいまだにうだつのあがらぬサーフィンに夢中になっている。


ASIAN PARADISE

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友人のサーフショップが開店5周年の記念にということで、町の公会堂でサーフィン映画の上映会が行われた。これは遠い過去でもなんでもない昨年のはなし。で、そこで上映されたのがASIAN PARADISEという映画。現在のSURFING WORLD誌の前身の編集長を務め、そこからSURFING CLASSIC誌を立ち上げた巨匠、石井秀明氏が監督をつとめたのがこの映画だ。映画の内容や製作のいきさつなど、詳しいことは知らないので割愛させていただく。

その日の上映会なのだが、映画が始まるや大多数の、どうみても石井氏の文章の洗礼を受けていない世代の若者達は眠ってしまっていた。20年前のわたしたちにとってのカリスマは、その時何を考えていたのだろう?リスペクトの精神も何も持ち合わせてはいない現代のサーファー達に何を考え、何を見たのだろう?最新の映像がビデオというメデイアによって次々と露出される現在、そんな時代背景の中でサーフィンを楽しむサーファー達が、20年近い過去の映像に興味を示さないとしても、それはだれにもせめることなどできないことだ。

事実としてそこに横たわっているのは、おどろおどろしいほど早く過ぎ去ってしまった時の経過でしかない。それ以外には何も無いのだ。当時、私達は彼の書くストーリーを、まるで熱病に冒された患者のように読み漁った。失楽園がJEFF DEVINEのLOST PARADISEからヒントをえたものであろうとなかろうと、彼の文章は私達を発売日のその夜まるごと虜にした。カリスマはその時代無くしては生まれ得ない。そういう事実を、あの晩、私は目のあたりにした。そしてカリスマがカリスマらしく振舞い生きていた時代が、どんなに素晴らしかったかを懐かしく思い出した。

映画が終り、大きなあくびをしながら帰路につく若者達の中で、私は憤りともどかしさを覚えた。

1984年6月、SURFING CLASSIC誌は廃刊され、それ以降私達は本当の意味でのサーフィング ジャーナリズムの洗礼を受けてはいない。時代もそれを求めようとはしていない。波間を迷うサーファー達に、いつの日か、またカリスマが舞い降りてくるのだろうか?


PHOTO BY JUNKO KAMOJI

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1985年初夏、家の前の海のサンドバーがパキパキに決まり毎日ご機嫌だった。ある日、関野光延君がそれを聞きつけてSW誌フォトグの鴨冶淳子を連れてやってきた。「すげえいいジャン、D-BARみたいだよ」てなことを言いながら2人で楽しくやっていた。私はこの時初めて、 いちおうプロと名のつくカメラマンに写真を撮ってもらった。なのでなんの変哲もない写真だが大切にしている。 ちなみにこの時は、ちょうど光延君とボードを交換した時で、私は彼のロペスモデルに乗っている。「だから何?」 と聞かれても何もあるわけではない。大切な写真といえば、WAにいった時にJACK MACCOY先生にポートレイトを撮ってもらったこともある。 残念ながらウツルンデスでとったもので、JACKさんもかなりご機嫌だったし、あとで現像したらゼンゼン変な写真だったが、いちおう大切にしている。 JACKさんは今、WAからゴールドコーストに移ったようだ。この写真の前に光延君聡君は1年間オーストラリアへサーフィン修行に出かけていて、それをケアーしてくれたのがJACKさんだったんだよね!上手くまとめられてよかった。


旧式のメルセデス

1982年の夏、和田浦駅前に1台のメルセデスがやってきた。中から降りてきたのは川南正さんだった。 稲村ガ崎の方で、今はJPSAの要職につかれている。当時はRASH WETSUITSの社長をされていた。「なによー、SHOPやってんなら言ってよ。RASHやんでしょ。WETもってきたからさ・・・」 営業だったかなんだかわからないうちにRASHが始まった。ターチャンとはマービン達と一緒に九州にいったので顔なじみだった。

当時私は、祖母の経営するタバコ屋の半分を借りて、SHOPをスタートさせていた。金も無かったし、そうする以外方法もなかった。そこでコツコツやりながら、海沿いに出ようと思っていた。思いのほか、たくさんの人が応援してくれたので、店のいい加減さとは反対によく売れた。月、10000円の家賃も滞納することなく祖母に支払えた。

こんな店構えじゃカッコ悪いので、もうすこしたってからターチャンにお願いしようと思ってたのだが、本人がいきなり来たのでかなりびびった。それもナス色のメルセデスで登場したもんだから何事かと思った。とりあえずRASHも順調に売れ、そこから出川さん植田さんや、もちろん岡さん、蓮沼さんといったワガママな鎌倉の重鎮達と出遭い、その後のゴタゴタにもまきこまれることとなるのだった。

私はいつも彼らを尊敬してるのに、彼らはいつもゴタゴタを起こしてはわたしを困惑させる、そんな将来が待っていることなど、その時解かるはずも無かった。先輩達は今もワガママでシアワセで裕福に生きている。そういうとこは見習いたいと思う。ターチャンは今、ロールスに乗っている。もちろん旧式のものだ。