THESE DAYS

 セイシュンノヒビ 

TALK ABOUT 1970th

あまり好みではないがBRYAN ADAMSのSUMMER OF'69を聞いている。70年代を語るのには、どうしても60年代が邪魔をする。夢がドッサリ詰まった60年代、私はただの田舎の少年だった。WOODSTOCKに気づくにはまだ若すぎた。できればもう5年くらいはやく生まれたら、また違った人生になったかもしれないなどと思っている。夢の60年代へ向かって音楽を聴いた70年代。 私は、ただただ退廃が支配する音楽を、それでも真剣に聞いていた。 行き場所を失ったものたちのHIGHWAY SONGもよく聞いた。NEAL YOUNGでありJACKSON BROWNEである。そんな感傷とは裏腹にサーフィンは自分を狂わせた。潮まみれの脳みそだった70年代後半である。


1970年代 夢のカリフォルニアから届いたもの

 1970年代の特集やるんですけど、何かないですかねぇ?」不埒な後輩君から突然のリクエストがきて、私はボンヤリと、近くて遠い30年前を思い出している。私は40歳の後半にさしかかる年齢なので、1970年代は10代から20代の時期にあった。それは、人間として最も楽しくいい加減で充実した時でもあった。ちなみに、こういう何とも厄介なリクエストを平気に寄せる後輩君の生まれた年は1971年。自分が、オムツからからヨチヨチ歩きを始めた頃のことを「聞かせてくれ!」というのもなんだかおかしなものだ。彼がヨチヨチ歩き出した時、ドアーズのジム モリソンはホテルの一室でひっそりと亡くなっている。そんなことまで思い出すと、1970年代はかなり遠いところにあるのかもしれない。

 その頃の私はと言えば、FENから流れるアメリカ音楽に耳を傾け、家の前の波に乗って、時間の大半を費やしていた。1970年代の後半5年間くらいはほとんどそうやって毎日が過ぎていった。東京の学校にも一応は行っていたので、週の何日かは都会の生活もあった。学校はほとんど行かず、中古レコード店を回り好みのレコードを物色し、好きなミュージシャンのコンサートに足しげく出かけたのもこの時期だった。1970年代、私の大好きなアメリカンミュージックは最盛の時を迎えていた。また、日本にはサーフィンブームが巻き起こり、当時の若者はこぞって海へ出かけ、サーフィンは若者の最もナウい遊びに君臨した。巷には陸サーファーなる人種も出没し、もっぱら都会の波の中で活動をしていた。原宿のホコ天を闊歩し、キサナドゥやメビウス、ビブロス等のディスコでステップを踏んでいた。(余談ではあるが、今また、そのてのディスコが復活したらしく、70年代には若者だった紳士淑女のみなさんが、当時を懐かしんで足を運んでいるらしい。)彼らは、サーフィン自体には熱中しない不思議なサーファー諸君ではあったが、それでも、サーフィンの格好良さに素直に憧れていた人種で、そういう意味においては、好感の持てる人種であった。彼らのボードはキャリアにボルトで止められ、海では混雑の原因にはならなかったし、危険でもなかった。今ほど、初心者の海難事故がなかったのもこういう理由からかもしれない。彼らは、海の怖さも知っていたし、ローカリズムもリスペクトしていたのだと述懐しておきたい。また、サーファーガールと形容された、当時のサーファー達が連れていた女の子の存在も、1970年代に彩りを添えた。長いワンレングスを革のバレッタで束ね、フレアのパンツをはき足元にはインディアンモカシン。冬にはカウチンセーターを羽織り、彼のサーフィンを焚き火にあたりながら砂浜から眺めた。
「彼と一緒に私も波に乗らなきゃつまんない!」そんなノリの現代っ娘と比較したら、軍配は高く70年代のサーファーガールに挙げたい。1970年代のサーファーはもてた。よって可愛い子をゲットする確立も他の誰より高かった。

 海のむこうアメリカでは、ベトナム戦争が終焉を迎え、アメリカ自体も、あるいは国民の誰もが、行き場所のない不安の中にあった。そういう感情を上手くメロディに乗せて歌っていたミュージシャン達がいた。ニールヤングであり、ジャクソンブラウンであり、ジェームステイラーである。彼らは病んだアメリカに心を痛め、真摯な態度で向かい合っていた。けれど対岸の日本の若者には、ウエストコーストミュージックという括りで捉えられ、「太陽サンサン、カリフォルニアの青い空から生まれた明るく健康的な音楽」そんな紹介がされた。そういう幻想的アメリカを紹介するのに一役も二役もかっていたのが、雑誌ポパイで、当時の若者には大いに愛された雑誌だった。「コカコーラを飲み、ヤンキースのユニフォームを着て、僕らの音楽を聞いても、君たちはアメリカ人にはなれないしなるべきでもないんだ。僕等の国は病んでいて大きな問題を抱えている。それがアメリカなんだ。」イーグルスのドン ヘンリーが語った言葉に全てが集約されている。1970年代、日本の多くの若者はアメリカを大きく勘違いしていた。サーフィン、ビーチバレー、ローラースケート、そしてウエストコーストミュージック。カリフォルニアの青い空は、当時の日本の若者にはどこまでも広く青く澄んで見えた。しかし、その下にあった彼らの苦悩を知るものは僅かな数の若者だけだったかもしれない。

 それでも1970年代にアメリカから届けられた文化は、魅力的で私たちをワクワクさせるに十分だった。ベルボトムのジーンズによれたネルシャツ、ダウンジャケットやダウンベスト。夏にはすりへったゴムゾウリ、潮焼けした長髪、キャルルックと呼ばれた改造VW。歌詞の重さを気にしなければ、十分に洗練されたBGMとして聞けるウエストコーストサウンド。CDもなければナイキのエアージョーダンもなかった。車には自分で選曲したカセットテープを詰め込み、靴はアディダスがほとんど。ごくお洒落なサーファーにはトニーラマのブーツやクラークスのワラビーが愛された。
サーファーの車にはことごとくアロハキャリアが装備され、全てのサーファーは、誇らし気に自分のお気に入りのサーフボードをルーフに乗せて走った。そのお気に入りのサーフボード、今ほどの性能の良さもなく、シングルフィンからツィンフィンに移行した時期、私たちはその変化に戸惑い、上達するのに多大な時間を費やした。その上達のあまりの遅さに、私たちは益々サーフィンにのめり込みその虜となった。

 人間が瑞々しく生きられ、感受性の強い時期は、誰がなんと言おうと10代から20代に決まっている。私はその時期、1970年代に居た。真実はそれだけで、それ以外には何もない。今の時代に生きている若者と自分たちを比較して「どっちが良かったか?」そんな無粋なことを言うつもりもない。サーフボードの性能は良くなり、比較的安価で入手できる手段もたくさんある。海外旅行にも簡単に出かけられる。コンピュータがあり、CDがあり、その便利さにおいては現代の方がはるかに優れている。ただし、私が聞いていたレコード盤の曲と曲の間に存在する少しの空白や、上手くターンが出来ないシングルフィンのもどかしさ、温水シャワーでは得ることの出来ない焚き火の独特の暖かさ。1970年代に存在した、そういうかけがえのない時間や物に私は誇りを持っているし、その時代に若く生きられたことを幸せに思っている。

携帯電話で波情報を得て、混雑極まりない海に飛び込んでいく、現代のサーファー諸君を私は否定しない。ただ、その種の人々に1970年代を語って一体何が生まれるのか?そこに少しの不安が存在する。海は混雑極まりなく殺伐としている。ノスタルジックな雰囲気には浸れても、私たちは1970年代には戻ることは出来ない。いくらサーフボードの性能が良くなっても、私たちを1970年代に連れて行ってくれる、そこまでのマジックが出来得るサーフボードなど何処にも存在はしない。ビンテージロングボードもビーバーテイルのウエットスーツも私たちをあの時代に連れて行ってくれることなどありはしない。ただし、海に浮かぶ全てのサーファーが、ほんの少し注意することで、海はもっともっと楽しい雰囲気になるかもしれない。波を待つ場所、どの波に乗ろうか? ほんの少しの注意によって、私たちは30年前のピースフルな雰囲気の海を味わうことが出来るかもしれない。隣に浮かぶサーファーをリスペクトしてあげよう!そして波を分かち合おう!いつもピースな気分でいよう!1970年代という時代から私が教わったことはそういうことだった。海にもサーフィンにも、あるいは音楽にもそんな雰囲気が満ち満ちていた、それが私の1970年代だった。


 

BERORE THE DELUGE

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ちっぽけな漁師町の高校生だったぼくが、唯一不便を感じたのは、自分の聞きたいレコードがなかなか手に入らないことくらいなものだった。たとえ都会でも、学校の授業は同じように退屈だろうし、酒もタバコもここでももちろん手に入ったし、特別ナンの不自由も感じてはいなかった。ただ好きなレコードがなかなか入手できないことにはいささか閉口していた。

ときどきは電車に揺られある程度の規模のレコード店まで足を運ぶのだが、そこでもガッカリさせられるのだった。「JACKSON BROWNEはおいてありますか?」「ハイこちらです」ヤッターと思うのもつかの間、ジェイムス ブラウンのとこまで案内されて、そのアフロヘアーを恨めしく思いながら1日がすぎるのだった。高校時代は、ほとんどシンガー ソング ライターの歌を聴きながら過ぎていった。ほとんどの友人達にはまったく趣味の合わない世界だったので、ひとりでせっせと聴き漁っていた。友人がいなかったわけではない。麻雀もしたし、夏にはナンパだってした、ごくごく健全な不良だった。ただ一人の夜とかには、よくレコードを聴いていた。歌詞とかを理解しながら、なんだか世の中は間違っていて、新しい世界を作らなければならない、などと寝言じみたことも考えていた。

DYLAN, JACKSON BROWNE, NEAL YOUNGなどがお気に入りだったが、アズベリーパークのコンクリートジャングルから飛び出してきた男、そうブルース スプリングステイーンはかなり衝撃的だった。ぼくがこれまで聞いていたシンガーはハイウエイから都会へ辿りつく、その過程を歌ったのに対して、この男はその都会の路地裏で暮らし、そのままストレートに都会を歌ってしまっていた。なのでこれまでにないパワーを感じたし、「おーし、おれも東京でんぞー」みたいな気持ちがふつふつと湧き上がってきたのだった。アルバム BORN TO RUNは衝撃的だった。

ナイーブな風貌と甘い声、なんだかアイドル路線のようなJACKSON BROWNEではあったが、その歌はかなりのメッセージがふくまれていた。当時のウエストコーストブームのシンボリックな存在として(明るく健康的でスマートだったからか?)多くのファンがぼくの周りにもいたが、彼のメッセージまでは興味を持ってはいなかった。彼等はJBの歌の意味など全くわかってはいなかったし、ウエストコーストミュージック=TAKE IT EASYという極めて貧困で短絡的な発想しかもってはいなかったのだ。

そのJACKSON BROWNEの初来日コンサートへ行ったのは1977年3月20日、新宿厚生年金ホールだった。結論からいうと、これが、このコンサートこそがぼくにとって、生涯ベストコンサートである。TAKE IT EASYからスタートして最後のBEROFE THE DELUGEまで、正確に言うとアンコールでTHE PRITENDERをやり、更にその後、DO YOU WANNA DANCE?  RED NECK FRIEND   SWEET LITTLE SIXTEENとつないでくれたのだ。アンコール曲が多くて得したとか、そういうレベルでベストコンサートだといってるのではなくて、ライブで彼の歌を耳にして、ほんとうに彼の歌に対する真摯な態度に感動したのだ。小刻みに震えるような感動はあのコンサート以来感じてはいない。

今からでも遅くない。興味ある人は聞いてみてください。これまでただウエストコーストのシンボルとしてだけで彼を見ていた人は、もういちどかれのメッセージに耳を傾けてください。よりよい未来を創造しよう、そう言う気持ちになれます。ねんのため歌詞をすこしつけておきます。

BEFORE THE DELUGE

この地球が悪用されていることに怒りを覚える奴ら

それも権力の為に、地球の美しさを忘れ去った男達の為に

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最期の時、地球の激烈な光度は、すべてを灰と化してしまう

その瞬間、すべてのものは消え尽くし、

剥き出しの夜明けには、ごく少数の人類しか残っていまい

そして、その単純で偉大な真実にぶつかった時

彼らは初めて生きつづけねばならないと悟るだろう

大洪水の後にも・・・・・・・

さあ、音楽でぼくらの魂をハイにしよう・・・・・・・

NOW LET'S THE MUSIC KEEP OUR SPIRITS HIGH・・・・・・


OCEANBREEZE

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私は、江川投手が神宮の森を仕切っていた頃、つまり六大学野球において法政大学が黄金期に、ちょうど1年間の浪人生活を抜け出して同じ大学にいた。キャンパスには、当時の成田闘争を支援していた中核派のみなさんが竹やりにヘルメット姿でいたりして、ちょっとしたいちご白書気分ではあった。1960年代が味わえたような気にもなっていた。が、キャンパスはお気楽なムードが支配していて、学生運動の闘士達はタイムスリップしているようでもあった。ついぞ私は手に石を持って体制に挑むことは経験できなかった。

この頃、サーフィンも今のようなブームを迎えており、キャンパスにもサーファーがちらほら見られた。そんな中で、いつも学生会館の所定の場所に陣取っていたのがOCEANBREEZE,つまり法政サーフィン部のみなさんだった。NSSAとかいう団体が学生サーフィンを牛耳っていて、各大学のクラブから出ないとコンテストには出れなかったので、しかたなく頭を下げ入部した。おかっぱ頭で、航空会社のカバンとかぶらさげてる奴に御願いするのはいやだったが仕方なかった。しかし、なんであんなカバンが流行ったのだろう?アロハエアラインやJALやいろいろあった。まあ、マジソンバッグのようなものだったのかな・・・・・

そんな中で、大韓航空のバッグをさげていたのがいて、それは個性的でよかった。彼は林君といい、今は警視庁に勤務している。亀戸のコイドンが部長をしていて、この人にはいろいろよくしていただいた。またわがままで迷惑もかけた。私が入部してまもなく一人の男がアメリカ旅行から帰ってみんなに合流した。あくの強い顔で生意気な印象だったが「おめえ、生理の山口百恵とSEXしたくねえ?」いきなりそう言われ、「栗田ひろみがいいです」と答え、それからはずっと友人のギロだ。坪内君は真面目な好青年で、松田君は酔うとだらしなく、藤田君や金子君もいた。石井一という簡単過ぎる名前の男や、人工芝のサンダルの近藤や丹野、石田もいた。

それからいろいろな後輩が入部したのだが、ちゃっかりサーフィン業界で身を立てている奴もいる。丹野弟はOMツアーの社長だし、坂井巌はサーフィンライフ誌の営業部長だ。両人ともになんてことはないサーファーでありながら良く頑張っている。かくいう私もなんのことはないサーファーのひとりではある。そういえば練馬のサーファーでサーフィンライフ誌の編集をやってる後輩もいた。彼のことはあまりよく覚えていないし、そのほうが好都合かもしれない。

で、OCEANBREEZEってのは、かのパブロクルーズの曲名から命名された。もちろん彼らのコンサートにもいったが、あまりにサーフィンとは関係ありありなので多くは語らないでおく。名前の由来とは裏腹になんちゃないクラブだったが、ほとんどすべていい人ばかりだった。これは本当にそう思っている。だいたい私の場合、自分より悪い奴を探すのはたいへんな作業である。この人達は年に1回集まって海で楽しむことを20年続けている。それだけでもすごい事だし、サーフィンの深さを垣間見ることもできる。優秀なサーファーよりも大勢の友人を持つサーファーのほうが人生は楽しいかもしれない。当時、人の波まで横取りして上手くなろうとしてた自分が恥ずかしい。私はそのことに気づいたが、世の中には一生気づかないサーファーも多い。優秀なサーファーはジャッジや雑誌だけで決まるわけではないということだ。

当時の友人から「ここを見て、懐かしくてほんとに涙が出ました」というMAILを頂戴した。こういう人はだいたいもうサーフィンはリタイアしている。うれしい便りだったが、できるなら一生サーフィンして笑顔でいたいとも思う。野球部の人は野球やめても平気でOB会とかいくだろうし、「お前まだ野球やってんの?」くらいのものだ。ほとんどのスポーツがそうだろう。けれどサーフィンは違う。止めてしまうと、後ろめたさを感じ、続けてる奴とは会えないものだ。そういうとこにサーフィンが単なるスポーツではくくりきれない何かがある。そう感じない奴は私の友人ではない。とすると、私はサーフィン止めてしまった友人には一生涯あえないことになる。それも困ったことである。

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1976年 浪人時代とHOTEL CALIFORNIA

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同じ千葉県でも成田という場所は、温暖な南房総育ちの私にとって、凍てつくように寒い場所だった。冬になれば毎日のように霜が降り、ダッフルコートなしでは外を歩けなかった。

父親が仕事の関係で成田へ転勤となり、ついでに私もそこの宿舎に転がり込んで浪人生活を決意した。予備校は千葉予備校というとこへ通った。予備校というと暗い学校をイメージするが、ここはほとんどが千葉県内の学生で構成されていて、気心も知れていて、高校生活の延長のようだった。昼休みには近所の公園で野球とかもした。

一生の中でこの1年間が一番勉強をした。狭い宿舎からも寒い成田からも、とにかく早く抜け出したかったのだ。サーフィンもおあずけを自分に課していた。勉強と、時々千葉市内にあった、MOTHERSというライブハウスに行くくらいだった。ライブのない昼間はレコードをかけてるだけの店で、たいしたものもかからず、しまいには自分でレコードを持ちこんだりもした。ここのバイトの奴とはわりと仲良くなって、ERIC ANDERSENのコンサートに行った。浪人時代に聞く彼のうたは、なんともいえずに心を打った。このコンサートは私の中ではベスト5に入る。

ところで、この浪人生活の間最も聞いていた、毎日聞いていたのがその年発売されたEAGLESHOTEL CALIFORNIAである。これはもう、そこの宿舎のほとんどの住人が口ずさめるくらい聞いた。朝から晩まで、毎日聞いていた。CLAPTONNO REASON TO CRYJACKSON BROWNEPRITENDERもこの年発売されたのだが、それらも消し飛ぶくらいに聞いていた。「1969年以来、そのワインは切らせています」という見事な歌詞、LAの退廃を歌い上げた至上の名盤は、浪人時代を上手くレイアウトしてくれた。寒い成田の気候も、なぜかこのアルバムには適度に調和していた。はやくサーフィンもしたかったし、お気楽な大学生にもなりたかった。当時はそう思っていた。けれどあの1年間は自分の中で、HOTEL CALIFORNIAとともにかなり貴重な時間だった。

海外へサーフトリップの時は必ず成田空港からなわけで、心はルンルンなのだが、なぜか感慨深くなってしまうのは、きっと自分の人生に1976年が重くのしかかっているからだろうと思う。またサーファーとしてあの1年間の空白は、とりかえしのつかないハンデとなってしまった。後悔?冗談じゃねえ!考えるサーフィンバカという究極の理想像に向かって進む自分にナンの後悔があるものか!

あのイントロのギターリフは私にとって、きっとどんなサーファーよりも切なく重く聞こえる音なのだろう・・・

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1972年 晦日

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中学3年生で坊主頭の私は、この日朝早く、ひとりで電車に揺られ東京へ出た。どうしても見たいコンサートがあったからだ。当時の友人達は南沙織天地真理に熱狂していたが、私はフォークソングというものの虜であった。落合恵子セイヤングなどから流れる、多少メッセージ色の濃い歌達に興味をもっていた。そしてすでにDYLANにも傾倒しはじめていた。

で、このコンサートなのだがフォークシンガーの紅白歌合戦のようなものでたくさんの人が出てたので田舎の中学生にはまたとないチャンスだったのだ。けれどオープニングアクトは皮ジャンにリーゼントのバンドがつとめた。キャロルである。この時が彼らのメジャーデビューとなり、そこからフジテレビのリブヤングに出演して一気に支持されたのである。かなり貴重な瞬間に遭遇したわけだが、当時の私にはただの騒音だった。

イズミヤ、古井戸,三上寛、ガロ、かぐや姫、五輪真弓、かまやつ、タンポポ団、なんだかんだとたくさん見れたのだが、一番見たかった岡林信康を見ることはできなかった。だまって家をでてきたためにその日のうちには家に戻らなければならなかった。電車いがい方法はなく、終電の時間はあっというまにせまってきた。両国駅から急行に乗り家にむかったのだが、妙にセンチな気分になった。泣いてしまいそうだったので、トイレに隠れてショートホープを思いっきり吸いこんだ。

1972年 12月30日、この日から私の人生は周りの友人達とはすこしずつずれはじめた。


新島

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私のアパートのとなりのとなりの部屋に新島から出てきて、都内(新島も東京なのだが)の専門学校に通う宮川君が住んでいた。私達は、すぐ仲良しになって、千葉、新島とそれぞれの家によくサーフィンしに出かけた。ひどい時などは、宮川君は学校に通ってるのに、私は平気で何日もかれの新島の実家にお世話になったりしていた。

ところで1978年の春、新島ではJSO主催によるスーパーサーフィンというプロコンテストが開かれた。当時、国内にはNPSAという現在のJPSAの前身の団体と、JSOという2つの組織があってお互い反目しあっていた。いや、面倒なので、お互い切磋琢磨して日本のサーフィンを盛り上げようとしていた、 とでもしとこう。とにかくこの頃から海外のサーファー達も日本のサーキットに参戦するようになり、 確かに日本のサーフシーンも新しい時代を迎えつつあった。

そんな海外のサーファー達の中で、このコンテストで一際目立ったのがハワイからやってきたデーン ケアロハだった。黄色のTOWN&COUNTRYのボードに乗り、そのスピードは断然際立っていた。結果、このコンテストもあっさり優勝した。2位のリノ アベリラもすごくよかったけれど、カラパナのBLACK SANDなんかをBGMにしながらかっとぶデーンは、まさに黒い弾丸のようですごかった。この男、監視小屋の中でショートホープなんかふかしていて、そんなとこも今の健康的なプロサーファーにはない魅力を持っていた。

これまでたくさんのコンテストに関わってきたけれど、なぜかこの時の新島のコンテストが一番印象深い。つい最近、サーフィンライフ誌のシニアフォトグラファー、藤沢裕之にあったのだが、彼はこの時の8ミリを持っているらしい。ところがそれはデンチンに貸したままだそうで、その所在をいたく心配していた。たぶんそこにはデーンリノS マスファラージャッキー ダンマイコとかも映ってるはずだからぜひ見てみたい。

新島も今よりもっとクサヤの匂いが充満していて、羽伏浦の波もよかったころである。


BIG WEDNESDAY

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永くサーフィンとかかわっているほとんどの人が口を揃えていうことに「映画、BIG WEDNESDAYでサーフィン始めました、あれでハマりました、あれこそ最高のサーフィン映画です」なんてのがある。本当だろうか?多くの人がいうほどに、なんだか違うんじゃねえのか?ずっとそう思ってた。

断っておくが、私はかなりの映画オンチだ。最近の日本映画とかも、高校生や大学生が卒業記念に作ったものと大差ないように思うし、わざわざ映画にしなくともTVドラマで十分なんじゃん?そう感じてしまうほどだ。下手すれば、これからはHPなんかでもっとすごいの作る奴とかでてしまいそうだ、何て事さえ思ってしまう。それくらいのオンチではある。

要するに、映画における手法とかいうのを何にも理解していないのだと思う。何となくだけど、重箱の隅をつつくような制作意図、ああいうのがなぜか鼻について許せなく思うのだ。もっと堂々と正面からぶつかって作ればいいじゃないか、などと思ってしまうのだ。なるべく面白い角度からものごとをとらえて、まず笑わせる、それから考えれば・・・そんなのは漫談の世界にまかせとけばいいじゃねえか。

そういうことからすると、たしかにBIG WEDNESDAYはわりと堂々とサーフィンをとらえてはいる。でもあれはさ、反戦映画というか、ベトナム戦争の後遺症でできたもので、べつにサーフィンじゃなくて、野球でもバスケットボールでもなんでもよかったんだろう?たまたまサーフィンをベースにしただけで、それが日本じゃおりからのサーフィンブームだったわけで、タイミングとしてはバッチリだったわけ。それで猫も杓子もサーフィン、サーフィン、「BIG WEDNESDAY最高!」そうなったんだな。

だからいまだに平気な顔で「BIG WEDNESDAY最高です」などとのたまう野郎とは、一線を画してつきあおうと、わりと真剣に思ったりしている。あれだったらママス&パパスのCALIFORNIA DOREAMIN'でバーンと始まるもうひとつの映画のほうがよかったな。

ついでなんで教えとくけど、セシリオ&カポノのコンサートにゲストでLOPEZ先生とマーゴ オバーグがきてね、その時「BIG WEDNESDAY観てね」なんてプレゼンテーションしたんだよ。映画もすこしだけ流れたかなあ・・・そのときのコンサートチケットは以下のものです。あんた生まれてた?

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校歌を謳う

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いい加減な大学生のサーファー達が集まってコンテストを開いた。5つの大学から80名くらいが参加した、当時にしてはちょっとした規模のコンテストだった。家の前の海でやったので、なんとなくボクに優勝させてくれた。当時も今もサーフィンコンテストなんて、どこかにそんないい加減さをひきずっている。

そのコンテストはKEEP CLEAN YOUR BEACHをつめてKCYBという名称のもので、いい加減な結果とは裏腹になかなか当時では画期的な趣旨のものだった。当然、コンテストのあと海岸清掃が行われ、解散となるはずだったのだが、突然、町会議員のT氏がやってきて表彰式で一席ぶたれた。さらに最悪なことに私達の大学の先輩ということで「岡田君の優勝を祝し校歌を謳おう」てなことになり、夕暮れの砂浜で肩を組みしどろもどろの校歌を謳った。

他の学校の選手たちは冷ややかに見ていた。野球や柔道やラグビーではなくてサーフィンで校歌というのもなんだったが、しっかりと校歌を謳った記憶はこのとき意外思い出せない。そう考えるとなかなかいい経験だったのかもしれない。21歳の秋のことだ。ちなみにこのコンテストはいまだに続いており、T氏もまだ議員さんとして活躍されている。遠い昔のようであり、かなり現実に近い過去である。


高円寺 トルバドール

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大学時代、私は阿佐ヶ谷の四畳半に住んでいた。高校時代からWESTCOAST MUSICにはまっていて絶対東京に出たら、ここトルバドールに入り浸りたいと思っていた。昼は海、夜はここでいい音楽聞きながら飲んだくれる。そんな毎日を過ごしていた。終電もなくなり、早稲田通りをテクテク歩きながらアパートに戻ることが日課だった。

この店はJACKSON BROWNEのファンクラブの本拠地で、いろんな人がたむろっていた。店長の鳥井ガク氏はいまも音楽評論の仕事をなさっている。彼からは本当に沢山のいい音楽を教えていただき、また良い聞き手であることの大切さみたいなことも教えてもらった。当時、日本はおりからのWESTCOAST BOOMで、雑誌ポパイなんかが若者のバイブルだった。

キャバレーやパチンコ屋でもホテルカリフォルニアが流れ、サーファー達が海へいくのにもカッコウのBGMとしてもてはやされていた。でも彼らが歌ってたのは、もっとシリアスで、シニカルな内容で「そういうメッセージをきちんと受け止めないとダメだよ」そんなことをガクさんはおしえてくれた。今も昔もサーファーというと能天気な人種で、ここに集う人達も、サーファーである私のことは好きではなかったようだった。「おまえなんかに、この歌のメッセージがわかるかよ」そんなふうに思われていた。

私は、少なくとも六本木のキンメビ(注)でDOOBIE BROTHERSで踊り狂うサーファーではなかったし、もっと真剣に音楽と対峙していたつもりなのだが、サーファーというだけでウスノロマヌケのレッテルがはられたのかもしれない。JBもWORREN ZEVONもサーファーだったんだぜ、といってやりたかったが、彼らの不健康さが不気味で黙っていた。ただガクさんと奥さんのヨーコさんにはほんとによくしていただいた。

当時、高円寺にはこういうロック喫茶みたいなのが軒を連ねていてWESTCOAST専門やBRITISH専門といった具合にジャンル別にわかれていた。当時のことを知ってる人がいたら、ぜひ連絡をいただきたいのだが、、、、みんなどうしているんだろうなあ。そうそうJACKSON BROWNE FAN CLUBの会報がTHESE DAYSというんだったな。

キンメビ・・・ 六本木にあったメビウスというDISCO。土日で海に行く前のサーファーが集まることで、金曜のメビウス、つまりキンメビといわれていた。2〜3回行ったが、THAT'S THE WAYのあとにCHINA GROVEがかかったりしてあれはあれで楽しかった。けれどなんの感慨もないのもまた確かなことだ。そのあとキサナなんてのも流行った。土曜日のビブロスでドビブなんてのもあったっけ?


HOT LIPS

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カットバックという技は自分には永遠にできないのではないかと、そう思いこんでいた時期がある。前へ前へと進むサーフボードがなんで後ろへ戻るのか?シングルフィンのサーフボードは自分を奈落の底へとたたきこんでくれた。そんな時代に柔らかな体と、スケートボードからのインスピレーションで、一世を風靡したのが、ラリー バートルマンだ。「バートルマンが最高」といえば「おまえは通だ」そんな時代だった。

もうひとり、独特のラウンドハウスカットバックで時代の象徴だったのがマイク パーパスというカリフォルニアンだ。そうこの人のブランドがHOT LIPSというんだ。長髪、ヒゲ、そしてトレードマークのテンガロンハットと当時のサーファーのなかでもとびぬけて存在感のある人だった。JET STINGERなんていう、ボトムからデッキに数個の穴ぼこが突き抜けている、そんな奇抜なデザインのボードも、一層彼の存在感を高めていた。

それから彼の一番の魅力は、サーフィン雑誌とかに書くストーリーの巧みさだった。HAWAIIについて書かれた、BLUEWATER FEVERなんてよかったし、地元の波を誉めるのに「ここでは誰もがウエットスーツを着替える世界最短記録をもっている。それほどいい波なんだ」みたいなフレーズに感動していた。スタイルと秀逸な文才はほんとうに魅力溢れるものだった。

それで20歳のときに、そのHOT LIPSのTシャツで記念撮影というわけだ。白黒のスピード写真が巷をにぎわせた時代だろうか。もちろんプリクラなんてあるはずもない。このTシャツは今もたんすで眠っている。となりの女の子は眠らせておくわけにはいかないので、家事とかいろいろやってもらっている。


BOB MARLEY &WAILERS

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さあ、これこそ貴重な超レアなマーレイ日本公演チケットだ。1979年4月、公演開始時間も午後4時とこのあたりの設定も今では考えられなくて、なかなかいい。このあたりからレゲエがだんだんと注目されるようになり、原宿のホコテンあたりをえせラスタマンや日曜パンカーや陸サーファーたちが闊歩するようになる。ロンドンの退廃から生まれたパンク、ジャマイカの貧困から生まれたレゲエ、ともにスゴイ状況から生まれた音楽。だからこそ圧倒的なパワーをそなえていたのだけど、それが日本に輸入されると、どうしてもファッシヨンが先行するんだな。

平平凡凡、能天気なサラリーマンが日曜になるとマーレイやSIDやロットンに変身して街を闊歩するわけだ。変だろう?可笑しいだろう?しゃらくせえだろう?そこにどういうわけか、陸サーファーなんてのもシンクロされてて、なんだかすごい時代だった。サーフボードをキャリアにボルトで留めて街を流す奴もいたってくらいな時代だったんだぜ。あの時代に日焼けサロンとかあれば、それこそすごかったんじゃないかと想像できる。

今じゃ原宿のホコテンもないし、マーレイもSIDももういない。ただサーファーがすこし形態をかえて生き残ってるだけだ。そう考えるとサーフィンてスゴイなと思う。もうひとつスゴイのがヘビメタの人達だ。彼らは自分たちの一貫したスタイルで生きている。長髪にフレアのジーンズ、そしてロンドンブーツ、これだけはまがんないよ、ってポリシーがある。ロバート プラントは偉大なロッカーなんだな!


初のサーフィン映画

たぶん、鴨川にあるユニバースホテルの中庭で上映されたんだと思う。川井先生が自費で作り上げた映画だ。芝生の上で興奮しながら見ていた。この頃、鴨川もそこのサーファー達も今よりうんと遠い距離の人達だった。上手かったし、歴史もあったし、ただただ尊敬していた。

高校の友人にオガマ君がいて「おれは川井さんのテストライダーだ」なんていってたのだけど、「え、テストライダーって何?久しぶりに会って、いきなり言うほど凄いこと?」自分はその程度の知識しかそのころはなかった。それからいろいろ覚えてだんだんと理解していった。で、オガマ君はすごいサーファーなんだってこともわかった。彼は今、コンピュータでサーフボードを作っている。やっぱり、すごい男なんだ。

この映画なのだが、ちょうどショーン トムソンやMRがハワイでバリバリの頃のものだ。オフザウオールが開拓されたのもこの頃だ。若いバテンスやマーク リデル、ラリー バートルマンとかも見れてかなり貴重な映像だ。それよりもこの映画に使われている音楽に一番感動した。イーグルスやいろいろあるのだけど、最後がJ C YOUNGのFOOLという曲でしめられている。川井先生はすごい。けれどあとで聞いたら、「ああ、音楽は弟が適当にやったんだ」そう言っていた。

この上映会のあと、もういちど観たくて九段会館にいった。そのとき先生はバラのリボンなんか胸につけていてカッコよかった。もう20年以上前のことだ。頑張ってサーフィンやってきて、今じゃ先生とも近づけたし、ホントに良かった。

オガマ先生のCOMPUTER SHAPE HOMEPAGE=http://www.fsinet.or.jp/~ogm/index.htm


1枚の定期券

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探し物をしていたら突然、こんなものが見つかった。名前は関野光延とある。

そうセキノブラの兄貴の名前だ。なんでこんなものが出てきたのか、自分でも不思議なのだけど、もうずいぶん昔、彼らがここへ遊びにきたときに、わざわざおいてったものだ。「これからオレは有名なプロサーファーになるから、きっとこれもってれば値打ちでるよ!」たぶん、そんなことだったと記憶する。

確かに彼も、弟、聡も日本を代表するプロになった。長いことTOP16に君臨する有名プロになった。そして今じゃ日本のサーフィン業界を仕切るSEKINO RACING SPORTS(株)の大社長である。時の流れは速い。ましてサーフィンなどにウツツをぬかしていればあっというまだ。

ボロボロの定期券をみながらそんなことを考えている。生意気な不良高校生だった彼とあったのは、つい最近だった気さえする。波のハザマでドンドン時は流れていく。たまには懐かしいことを思い出すのも悪くない。


PIPELINE その光と影

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1979年、今から20年も前の夏。自分と仲良くかたをくんで写真に収まっているのはMARVIN FOSTERというハワイアンサーファーだ。多分、彼が17歳のとき、初めて日本にきた時の写真。場所は宮崎。コンテストかなんかでいったときのものだ。いろんなことや人に出会って、すごく楽しい旅だったことを覚えている。ARVINはこの頃から「将来、PIPEを背負っていくのはこいつだ」くらいに期待されたサーファーだった。事実、MASTERSにこそ勝たなかったものの、フリーサーフィンでみせるパフォームはPIPEの顔そのものだった。20フィートのWAIMEAのしかもレフトへとつっこんでいく根性もすべてがHAWAIIANの期待の星だった。兄のレニー、弟のカラニもすぐれたサーファーで、典型的なハワイアンファミリーの中に育った。(デーン ケアロハのように純血のハワイアンではないが・・・。

そんな彼もここ数年すっかり海には顔を見せない。パイプライナーの称号を得たサーファーにはそんな奴が多い。ニューヨーク出身の異色なサーファー、リック ラスムーセンもしかり、MARVINの手厚い指導を受け、パイプライナーの道を進んだTIM FRITTSなどもその一人だ。ちなみにこの2人のサーファーはすでに他界している。死因について、詳しく述べるのははばかれるほど悲惨な最後を遂げている。サーフジャンキーなどという言葉では片付けられない、なにかあそこでサーフする奴に運命ずけられたものでもあるようだ。世界でもっとも美しく危険な波PIPELINE。そこに魅せられた者にだけ運命ずけられるもの。ひととき激しく燃え上がって短命に終ってしまう運命のようなもの。

そういう事実を知ってあの波を見ると、それまで以上に美しく、またより危険なものに見える。畏敬の念さえ覚える。なぜLOPEZが神様なのかということは、こういう隠された事実が教えてくれる。長年に渡り、あのPIPELINEを優雅にしかも華麗にSURFする姿は常人の範囲をこえているとさえ思わせる。MARVINはどうしているのだろう?またハレイワの公園でいっっしょにソフトボールがやりたいけれど、彼をとりまく噂話はけっしていいものではないようだ。ただ20年前の夏、楽しい時間を過ごした事実は、どんなことがあってもけっして消えることは無い。

WHATS UP BRADA?


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